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猫と語ろう国語教育

621 :GEN ◆MWwfLbUq6g :2006/12/17(日) 03:56:49 ID:LJyQk5fg
信仰ってのは感性であって理論とは本来対極にある筈なのに、信仰の根拠を論理付けすることにも非常に貪欲でもある。
でも最後の最後には「理屈じゃ解らない」「実践あるのみ」何て言う。これって「ハイになれ」ということですねw
ここに隠されている心理的な「隠蔽」が”信仰心”の本質的構造の重要な一要素なのだと思う。
前にも言いましたが、宗教と言うものは都合が良くないと成立しない。都合の悪いものは撃沈(潰す)するか、排除・隠蔽する。
(宗教戦争ってのはこれです。政教分離ってのはこの危険性の排除ですね。)
ここで自宗教の一般的正当化ってのを論理化しなきゃならないという本来の宗教的根拠(感性)とのダブルバインドに陥る。
そこから向かう道を如何取るか。これが信仰(宗教に限らず)というものの大きな課題だと思う。
宗教に限って言えば、私はその答えは宗教を超える事しかないと思う。開かれた宗教というものは、論理的にも破綻している。
釈迦は何が言いたかったのか…釈迦は宗教自体を批判をしたのですよね。勿論背景にはバラモン教がその対象としてあった
わけですが。全ての拘りから解脱するってのは宗教自体・信仰自体も例外ではなかった。
釈迦がキリストと決定的に違うのはここだと思います。
でも、後世の人々は「仏教」にしてしまった。”拘り”を作ってしまったんです。思想は体系化され体系化されると”形”となり
「存在」と言う箱の中に仕切られてしまう。釈迦の誤算ですかね。いや免れないと言う事も解っていたのかも知れませんが。
でも「言わなきゃ始まらん」ってね。

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